なぜ銀座を歩きながら記憶と空き地の関係を考えているのか。

日が暮れた外堀通りを東京駅から新橋に向かって歩いていた。
今日は風もなく、4月にしてはすでに上着も要らない穏やかな気候。気ままにてくてく歩くにはちょうどいい。歩道をゆく人もさほど多くない。帰宅を急ぐ人、繁華街へ向かう人。僕は残念ながら会社に戻るところ。

数寄屋橋のスクランブル交差点を渡って気がついた。阪急が入っていた東芝のビルがそっくりなくなっている。しばらく歩いてまた振り向くと有楽町マリオンのビルまで視界が広がっていた。日比谷側は泰明小学校まで丸見えだ。大きな敷地がそっくり空いているのである。たしかにあそこにはHMVやアウトドアショップや、そういえば地下には安いラーメンを食べさせる店があったなあ、と考えた。が、いまとなっては幻だ。

一年もすれば新しいビルが建って、そんな昔のことなど皆忘れてしまうのだろうなあ。時間が記憶を薄めるのも確かだが、新しい何かがその場所を占めてしまうことが、古い記憶を覆い隠してしまうのだろうと思う。

何かを忘れようと思ったら、それに変わる何かをその場所に置き換えてしまえばいい。心はあっさり古い記憶を消してしまうだろう。空き地や隙間のままにしておいても、記憶は居座ったままな気がする。

と、考えながら歩いているといつの間にかヤナセも無くなってアシックスが入っているし、以前先輩に連れて行ってもらった不思議な狭さのかっこいいバーも見当たらなくなっている。「僕の銀座」が記憶を失うように書き換えられているのでありました。




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